リズールとレクトゥール
昔、近代文学を専攻しておりました。
その時に得た知識ですが、「読む」という行為には二つの側面があります。
1つはリズール。消費者。
もう一つはレクトゥール。精読者。
リズールはただストーリーを楽しんで読むもの。
レクトゥールは、ストーリーの奥に流れている本意を解き明かそうというもの。
例えば鴎外の舞姫。
リズールとして読めば、留学先で妊娠させた彼女を捨てて日本にひとりで帰るというダメ男の話となりますが、レクトゥールとして読めば、国の為、家のために勉学にいそしんで国費留学生となってドイツに渡った男が自我というものを知る。でも日本で待っているのは自我のいらない官僚という席。いつか帰らなければならない没個人としての日本。でも気づいてしまったアイデンティティをもって生きることの素晴らしさ。その二つの選択肢に挟まれて、結局は自我を捨てて日本に戻ることを選んだ男の悲しい物語。となります。
ここでは文学テクストには、こうした文章の奥に流れているものがあります。
私の作るものも、同じ。
商品(≒リズール)ではなく、作品(≒レクトゥール)を作っていると思って作っています。
表現したいものが奥に流れている。
そういうつもりで作っていたけれど。
バッグやニットは用の美や鶴見俊介のいうところの限界芸術という分野に入ってしまうから、
純粋芸術とは違っている部分もあるのだろうけれど、それでも、私の作るものは、私の言葉の代替品だと思って作っている。
だけど。
畑のちゃんと畝ってないところにどんな種を植えてもダメなんでしょうか。
少しの疑問を持っていない心に、私の言葉は響かないんでしょうか。
耳には届いているけど、心に響いてないってこと、目を見たら解ります。
どうしたら届くんですか。
でも半面、こう、もやもやしていると、わかってくれる人も最近はできてきました。
このことに関してはほんとありがたい。救われています。