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カテゴリー「Pensées」の9件の記事

リズールとレクトゥール

昔、近代文学を専攻しておりました。
その時に得た知識ですが、「読む」という行為には二つの側面があります。

1つはリズール。消費者。
もう一つはレクトゥール。精読者。

リズールはただストーリーを楽しんで読むもの。
レクトゥールは、ストーリーの奥に流れている本意を解き明かそうというもの。

例えば鴎外の舞姫。
リズールとして読めば、留学先で妊娠させた彼女を捨てて日本にひとりで帰るというダメ男の話となりますが、レクトゥールとして読めば、国の為、家のために勉学にいそしんで国費留学生となってドイツに渡った男が自我というものを知る。でも日本で待っているのは自我のいらない官僚という席。いつか帰らなければならない没個人としての日本。でも気づいてしまったアイデンティティをもって生きることの素晴らしさ。その二つの選択肢に挟まれて、結局は自我を捨てて日本に戻ることを選んだ男の悲しい物語。となります。

ここでは文学テクストには、こうした文章の奥に流れているものがあります。

私の作るものも、同じ。
商品(≒リズール)ではなく、作品(≒レクトゥール)を作っていると思って作っています。
表現したいものが奥に流れている。
そういうつもりで作っていたけれど。

バッグやニットは用の美や鶴見俊介のいうところの限界芸術という分野に入ってしまうから、
純粋芸術とは違っている部分もあるのだろうけれど、それでも、私の作るものは、私の言葉の代替品だと思って作っている。

だけど。

畑のちゃんと畝ってないところにどんな種を植えてもダメなんでしょうか。
少しの疑問を持っていない心に、私の言葉は響かないんでしょうか。
耳には届いているけど、心に響いてないってこと、目を見たら解ります。
どうしたら届くんですか。

でも半面、こう、もやもやしていると、わかってくれる人も最近はできてきました。
このことに関してはほんとありがたい。救われています。

panse

ずっともやもやしていて言葉にできなかった気持ちがありました。
自分はどんなものを作っていきたいか。

女子って「もの」からパワーをもらうことがよくありますよね。
新しいネイルがきれいにぬれたとか。
出がけにお気に入り曲が流れたとか。
髪がきれいに結えたとか。
ああ、もうちょっと寝ていたいと思うときでも、
そのことを思い出すとパッと起きられたりしちゃう。

毎年、冬が近づくと取り出すお気に入りのコートがあれば、
めんどくさい外出も、よし!と頑張れちゃうみたいな。
辛いことがあっても、あのコート来て今日は頑張ろうみたいな。
そんな力になれるニットやパッグを作りたいんだなって。
だから品質の良い素材を使って、使い捨てにならないものを求める。
しっかりした技術で作る。
いつか終わる日が来ないものをつくりたい。
大切に使って、また次のシーズンにと片づけて、
またまたそのシーズンになったら、出してもらって、
悲しいことや楽しいことを一緒に体験させてもらって、
長い時間を一緒に過ごして、一緒に育っていく。
時々、持ち主様にエールを送れたりもして。
・・・そんな作品を作りたいんだなって、思ってた。

やっと言語化することができました。
でもまだ、つたないデスネ。まとめきれない。

やっぱり個展やってよかった。
見ていただいて、お話して、熱をもらって。
お客様の、きらきらした目と、高揚した声とで彩られ、溢れ零れ落ちた言葉は、
私の方こそ受け止めきれたか、取りこぼしてないか心配なくらいでした。
でも、うれしかった。

言葉で気持ちを伝えるってことは、人間にしかできないこと。
作品作りで黙々と一人で編んでる間は、私の気持ち伝われ~って思って編んでたけど、
それ以上に返ってくるものが多くて、輻射熱にまた焼かれそうです。

ああ。
ありがとうって言葉をつかわないで、ありがとうって気持ちを表すにはどうしたらいいだろう。

明日は個展最終日。


作品を作れていますか。
商品を作っていませんか。

技術の力に頼っていませんか。
素材の力に頼っていませんか。

その場の相対的な正解を求めず、
自分だけの絶対的な正解を出せていますか。

-----------------------

また また自分に問う。 私は<作品>を作りたい。
<商品>は作りたくない。
私は作品を作れているのかな。 違いを認識しない人たちが、
商品作ってほしいと、無垢な笑顔で投げかける。
その言葉は悪意がない分残酷で、
その人の目に映る自分は、
その程度のものしか作れていなかったのかと、 とても悲しくなる。

インターテクスト論・・の呪縛

昨日書いていたインターテクスト論。

これを最初耳にしたときの愕然とした気持ちったらない。
たしか先生はこんなことも言っていた。

 小説のプロットは、もうすでにシェイクスピアの時代に出尽くしていている。

 だからこれから生まれてくるものは、過去作品の感想文やつぎはぎでしかない。

そのころは字を書くことを商売にしたかったので、この言葉は私の心に突き刺さった。
というよりも、頭を鐘で打ち付けられたような衝撃が、
ガーンガーンとうるさいくらいに鳴り響いて、次の言葉が聞こえないくらいだった。

でも確かに思いつくことがある。
好きなな作家のインタビュー記事で、「面白いと思う本がなかったから自分で書いた」
これも逆説的なインターテクストだ。

私だけでなく、現代を生きる我々はもうこのインターテクストの呪縛から逃れられないのかと思うと、
絡め取られたクモの糸にあがく虫のようで、自分が滑稽に思えた。
自分はなんて馬鹿なのだろうと感じて、とても悲しかった。

そしてまた、やめてしまえば楽になるのに、やめられず、作ることにしがみついている悲しさ。

+

作品の先にある光明を見つけられないまま、絶望の淵でcoeurの根底で抱えていたものは、
過去のミニコミ誌「ハオ」に掲載した、私の紫紺の色調の写真群にあらわされている。

どんなに素敵なものをつくり出しても、もう自分は(既知未知含め)過去作品の亜流にしかなれないのだと知ってとても悲しかった。

でも。







ちょいメモ:用の美という苦しみ

ちょいメモ:用の美という苦しみ


◎リズールとレクトゥールの問題 (ディボーテ)
 レクトゥール=消費的読者。物語のストーリーの流れを楽しむ読者。
 リズール=精読者。作品の中の人間性を探求したいから読む読者。

→この件に関しては、白か黒かではないんだなと。自分どの場所に立つか、自分で決めればいい。もうリズールの視点を持ってしまった人は、リズールを知らなかった頃のレクトゥールの視点には戻れないけれど、時に内包していい。


◎清水徹「時間の地平における読書から絶縁することがひどくむつかしい」

→私で言えば対価の地平かな。それでも値札を見ずに速攻買われた作品のように、私が商品を作らず<作品>を作れていれば不可能ではない。


◎間テクスト性 (ジュリア クリステヴァ)
すべてのテクストは先行するテクスト、プレテクストからの引用であり、そしてその引用されたもののモザイクであり、またその変形である。

→この言葉に私は絶望していた。でも改めて読んでみて、どこを含蓄しているかということで変わってってくる。そのプレテクストもまた何かを取り込んでいるはずなので、そこも含めていけば、より一層深く味わいのあるものができるのかな。絶望だけじゃない希望をもって言ってた言葉だったんだな。でも決して典拠論にはいかないように注意しないと。


院生のころに読んだ。前田愛(まえだよしみ)「文学テクスト入門」を読みかえして、今の自分のおかれている立場を振り返ってみました。

作品を作れていますか。
商品を作っていませんか。

技術の力に頼っていませんか。
素材の力に頼っていませんか。

その場の相対的な正解を求めず、
自分だけの絶対的な正解を出せていますか。

-----------------------

また自分に問う。

私は<作品>を作りたい。<商品>は作りたくない。

私は作品を作れているのかな。

違いを認識しない人たちが、商品作ってほしいと、無垢な笑顔で投げかける。

その言葉は悪意がない分残酷で、

その人の目に映る自分は、その程度のものしか作れていなかったのかと、

とても悲しくなる。

+

ふと、前田愛か鶴見俊介が何か言っていたような・・・

探してみよう。

あった。

文学テクスト入門増補 (ちくま学芸文庫)

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放置していたHP→http://homepage3.nifty.com/3gatsu/

類型の波

類型の波は 暗く深く
時に大きくうねっては 甘美な声で私を飲み込もうとする
誘惑の触手を振り払い また 象牙の塔に逃げ戻る

時々考える。

作品を作れていますか。
商品を作っていませんか。

技術の力に頼っていませんか。
素材の力に頼っていませんか。

その場の相対的な正解を求めず、
自分だけの絶対的な正解を出せていますか。

いろいろ考える。

ウェブを、センス良く作り直してくれる人がいないかなとか、

出来上がったバッグの写真を綺麗に撮ってくれる人がいないのかなとか、

撮った写真を素敵に加工してくれる人がいないかなとか。

でもお金を出してプロにお願いしてもみたけれども、結局は気に入らず自分でやり直し。

ってことは、やっぱり自分でやるしかないのかな。

ああ難しい向いていなと思いながらも、毎回毎回自力でイラストレーターや弥生会計と格闘している。

ほかの才能に出会いたいと思いながらも、いつも空振りにがっくりしていた。

でも・・・

バッグとニットのデザインとその制作だけに集中したいとおもいながらも、それら事務仕事やほかののデザイン関係のもの全部含めて、さんがつさんの次に産みうみだすものを楽しみ待っていてくれる人が、この自分の納得いくラインで、これからもやっていくしかないんだよね。

時々ものすごい孤独感に苛まれるんだけど、

「先生の作るバッグが好き」って言ってくれる人がいる。

だから、そう声かけてくれる人たちとの出会いに感謝して。

ありがとう